(2) Samuel Beckett "The Unnamable" 2017/03/14 10:49

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Samuel Beckett の長編小説三部作としては、最初の2編はよい作品だけど、三番目の L'Innommable (The Unnamable) はまるで訳がわからないって言ってる人が多い。でも僕はどういうわけかその反対で、最初の2作は読もうとしても途中で挫折してしまうくらいに退屈で、L'Innommable (The Unnamable) の方がずっとわかりやすい。存在していることについての絶望感と孤立感を直接的に、容赦なく、いっさいの嘘や空しい希望を与えることなく、赤裸々に述べている。

英語版の "The Unnamable" の最後の2ページくらいを Harold Pinter というノーベル賞作家であり役者でもある人が見事に朗読しているビデオが YouTube 上にある。

Harold Pinter on Samuel Beckett
   https://www.youtube.com/watch?v=-N99S8n2TiA&t=3m55s

Samuel Beckett の作品をさほど詳しく知っているわけじゃないけど、僕なりの中間報告をしておくと、彼の作品は「存在することについての違和感について延々と続く独り言」で成り立っていると思う。

自分が存在していることが気持ち悪くてたまらないが、ともかくもここに存在してしまっているらしい。本当に存在しているのかどうかはっきりしないが、おそらく存在しているのだろう。そして自分がどういう存在なのかはわからない。さらには何のために存在しているかもわからない。

他人とコミュニケーションを試みても、それが果たして本当にうまくいっているのかもわからない。もしかしたらあらゆる人は単にひとり言を言っているだけかもしれない。

そんなことを延々と言い続けるのが Samuel Beckett だと僕は感じている。それを比較的にわかりやすく示している作品として、僕は The Unnamable (L'Innomable) を挙げる。少し引用してみる。

小説の冒頭
WHERE now? Who now? When now? Unquestioning. I, say I. Unbelieving. Questions, hypotheses, call them that. Keep going, going on, call that going, call that on. Can it be that one day, off it goes on, that one day I simply stayed in, in where, instead of going out, in the old way, out to spend day and night as far away as possible, it wasn't far. Perhaps that is how it began. You think you are simply resting, the better to act when the time comes, or for no reason, and you soon find yourself powerless ever to do anything again.
   — Samuel Beckett "The Unnamable," Everyman's Library p.331

冒頭はこんな感じだ。実に短いフレーズが続々と高速度に流れる。それぞれのフレーズをカンマで区切っている。センテンスも短い。しかしパラグラフは普通の小説の5倍くらいだろう。

ずんずん読み進めていると、センテンスがどんどん長くなっていく。そしてパラグラフはきわめて長大になっていく。その字面を眺めているだけで、息が詰まってくる。小説は原文でほんの150ページくらいで、邦訳の文庫版ではおそらく300ページくらいだろう。

パラグラフが変わる(つまり改行が行われる)のは、原文では最初の15ページだけ、つまり邦訳の文庫本版ではおそらく30ページ分だけだ。そのあとの原文で135ページ(邦訳でおそらくは270ページ)は、まったくパラグラフの区切りがない。つまり、延々と改行も何もなく続くのだ。あらゆるページが文字がぎっしり詰まって真っ黒なのだ。センテンスも長くて、特に長いものでは、僕が気づいたものだけでも 147 words ものセンテンスもある。もっともっと長大なセンテンスもあるかもしれない。ただし文章はわかりやすくリズミカルなので、構文がとりにくいとか理解しにくいということはない。

ともかく唾を飛ばしながら主人公がまったく一人で独り言を高速で続けているのだ。途中で誰か別の人間(または何かの生物)が脇を通り過ぎているかのように感じられるが、主人公にはどうやら目も見えないし耳も聞こえない(かもしれない)ので、脇を本当に何かが通り過ぎたのか、誰かが本当に何かを言ったのかもよくわからない。ともかく登場人物は、この主人公一人(あるいは一匹)なのだ。

この主人公は、自分が本当に存在しているかどうかも自分でわからないらしい。いつからここにいるのかもわからないらしい。実はまだ僕はこの小説を大雑把にしか理解していないので、もしも細かい点で間違っていたら許してほしい。

(2016年5月3日に別のサイトにて僕が書いた文章を、ここに転記している。)

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コメント (16)

OED Loves Me Not
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2017/03/14 10:53
(続き)

主人公は、わけのわからないことを言っているのだということを自覚しているらしい。そしていろいろ延々としゃべりながらも、次に何を言いたいのか忘れてしまって、「まあいいか」と言ったりもする。それでいて、しゃべり続けないではいられない。永遠に、決して黙ることはないだろうと言っている。

And at the same time I am obliged to speak. I shall never be silent. Never.

さらには、私は一人になることはなかろうと言い、その直後に「私は一人だ」というふうに矛盾したことを言う。通常の感覚ではこれは矛盾だろうが、主人公は一人であると同時に一人ではないとも言えると思う。つまり、周囲に常に人(あるいは生物)がいるようでもあり、いないようでもあるらしい。周囲の生命体と意思疎通したくなくても向こうの方から嫌というほど働きかけてきているようでもあり、まったくそんなことがないようでもある。そんな感じではないかと僕は見ている。さらには、どうやら周囲は真っ暗らしいので、余計に主人公は周囲の状況がつかめない。小説のずっと後の方で、主人公が自分のことを盲目だと言っていたような気もする。(僕の記憶が確かではない。)

I shall not be alone, in the beginning. I am of course alone. Alone. That is soon said. Things have to be soon said. And how can one be sure, in such darkness?

周囲はまっくらで、あたりに誰が通りかかっているのかもわからず、それが Malone なのか Molloy なのかもわからない。涙がとめどなく流れるが、悲しいわけではまったくない。もしかしたら涙ではなく、脳が解けて流れているのかもしれない。耳がまったく聞こえないわけではないらしい。というのも、音が聞こえてくるからだ。

That I am not stone deaf is shown by the sounds that reach me.

また自分は、永遠にここにいるらしいけど、永遠の過去からずっとここにいるわけではないらしいなどというわけのわからないことも言っている。ということは、主人公はいつどこからここにやってきたのかも覚えていないのだ。

It is therefore permissible, in the light of this distant analogy, to think of myself as being here forever, but not as having been here forever.

さらには、自分がこの場所が出来上がって自分を受け入れてくれるのを待ったのか、あるいはこの場所が最初に存在していて主人公がやってくるのを待ってくれたのかがよくわからない。おそらくは自分が出現したのとこの場所が発生したのとが同時だったのだろうなどと言っている。これは仏教哲学の考え方に基づくのだろう。

Did I wait somewhere for this place to be ready to receive me? Or did it wait for me to come and people it? (中略) I shall say therefore that our beginnings coincide, that this place was made for me, and I for it, at the same instant.

主人公には、自分のことがまるでわからない。目が開いていることはわかる。というのも、涙がとめどなく流れているからだ。どこかに座っているということもわかる。というのも、尻や足の裏や手のひらや膝に圧力を感じるからだ。ただ尻などを押さえつけているものが何なのかはわからない。

I, of whom I know nothing, I know my eyes are open, because of the tears that pour from them unceasingly. I know I am seated, my hands on my knees, because of the pressure against my rump, against the soles of my feet, against the palms of my hands, against my knees.
... but what is it that presses against my rump, against the soles of my feet? I don't know.
   — Samuel Beckett "The Unnamable," Everyman's Library p.346

真っ暗で何も見えないので、自分が服を着ているのかさえわからない。

This question in any case is secondary, since I see nothing. Am I clothed? I have often asked myself this question.
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2017/03/14 10:56
続き

主人公は、自分の体から突起物がすべて取れてなくなってしまったと言っている。つまり 鼻・髪の毛・目などがすべて取れてしまったのだ。だからセックスもできないと言っている。

No more obscenities either. Why should I have a sex, who have no longer a nose? All those things have fallen, all the things that stick out, with my eyes, my hair, without leaving a trace, fallen so far, so deep, that I heard nothing, perhaps are falling still, my hair slowly like soot still, of the fall of my ears heard nothing.

さらに、何かを想定することはやめようと言っている。自分が動いているのか、あるいは動いていないのかさえ想定することをやめると言っている。というのも、それは重要でないからだと言う。それでは重要なこととは何か?それは、ここでこのようにしゃべっている(自分の)声が存在しているということ、そしてその声は自分が嘘を言っているということを知っているということ、自分が言っていることに無関心であることなどが重要なのだと言っている。このように、周囲の事物はすべて存在しないかもしれないけど、ここでしゃべっている声だけは存在していて、それだけが重要なのだという考えは、Rene Descartes の方法的懐疑 (Je pense, donc je suis. に至るもの) を彷彿とさせる。

Let us then assume nothing, neither that I move, nor that I don't, it's safer, since the thing is unimportant, and pass on to those that are. Namely? This voice that speaks, knowing that it lies, indifferent to what it says, too old perhaps and too abased ever to succeed in saying the words that would be its last, knowing itself useless and its uselessness in vain, not listening to itself but to the silence that it breaks and whence perhaps one day will come stealing the long clear sigh of advent and farewell, is it one?

   — Samuel Beckett "The Unnamable," Everyman's Library p.349
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2017/03/14 11:14
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Samuel Beckett の "The Unnamable" は、まだ一度しか読んでいない。そのあとあちこちでそれについての感想文を書いたり、たくさんの文章を引用してそれについて細かくコメントしては来たが、通読したのはまだ一度だけだ。やはり 100 回くらいは通読しないとどんな作品でも本当に味わい尽くすことなんてできないと痛感する。高校生のときには、日本語で書かれた3冊の本をそれぞれ100回ずつくらい読んだ。命を削りながら読んだ。何度も何度も何度も何度も書写しながら読んだ。暗記してしまいそうなくらいに読んだ。しまいには、その作品の文体そっくりな日本語しか書けなくなった時期が10年くらい続いたくらいだった。

それはともかく、Samuel Beckett のこの小説についての僕の理解もまだ生半可だけど、ともかく気に入った箇所を引用しながら、だいたいの荒筋や僕なりの印象を書き連ねていく。

主人公には名前がなかったはずだ。人間だとは思うけど、もしかしたら人間でないかもしれない。僕が思うには、この主人公は本当に生きているのかどうかもわからない。そもそも Samuel Beckett の作品においては、登場人物が正気なのか狂気なのか、生きているのか死んでいるのか、この世の人間か死後の世界の人間か、動物なのか人間なのか、そして登場人物たちが本当に語っているのか黙っているのか、さっぱりわからないように描かれている。

この小説もそのように続く。主人公の語り口は矛盾だらけ。そしてその矛盾こそが人間存在や人間の意識の本来の姿だと Beckett は言っているように僕には聞こえる。わかりやすくて筋書きがはっきりして、起承転結がはっきりしていて論理的で、誰が何のために何をどうしているかがよくわかる話よりも、僕にはこのようなわけのわからない世界の方がずっとリアルに見える。
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2017/03/14 11:20
上記のコメントにて述べたようなことを綴っている Beckett のひとり言の文面をここに引用する。

I'll ask no more questions, there are no more questions, I know none any more. It issues from me, it fills me, it clamours against my walls, it is not mine, I can't stop it, I can't prevent it, from tearing me, racking me, assailing me. It is not mine, I have none, I have no voice and must speak, that is all I know, it's round that I must revolve, of that I must speak, with this voice that is not mine, but can only be mine, since there is no one but me, or if there are others, to whom it might belong, they have never come near me.

   — Samuel Beckett "The Unnamable," Everyman's Library p.349


「生まれてきたことが罪悪だ」というような意味の台詞を、あちこちで Beckett は言っている。 有名な "Waiting for Godot" でも、次のような会話がある。

VLADIMIR: ●Suppose we repented.●
ESTRAGON: Repented what?
VLADIMIR: Oh . . . (He reflects.) We wouldn't have to go into the details.
ESTRAGON: ●Our being born?●
(Vladimir breaks into a hearty laugh which he immediately stifles,
his hand pressed to his pubis, his face contorted.)
   http://samuel-beckett.net/Waiting_for_Godot_Part1.html

上記の会話が出てくるビデオ(3分58秒のところ)
   https://www.youtube.com/watch?v=Wifcyo64n-w&;t=3m58s

上記の会話では、Vladimir というノッポが「悔い改めようか?」と言う。Estragon がすかさず「俺たちが生まれてきたことを悔い改めるのかい?」と言っている。

"Piece of Monologue" という戯曲においても、冒頭で "Birth was the death of him."(生まれてきたことが、彼の命取りになった)などという少し謎めいた言葉で言っている。

"Piece of Monologue" の映画版のビデオ
   https://www.youtube.com/watch?v=kWS1LrxCROs

さらにこれに似たことはあちこちの作品の中で Beckett は言っているが、いま僕が紹介している "The Unnamable" でも、次のように言っている。

Yes, I have a pensum (注釈: a piece of work, a school task or lesson to be prepared という意味) to discharge, before I can be free, free to dribble, free to speak no more, listen no more, and I've forgotten what it is. There at last is a fair picture of my situation. I was given a pensum, at birth perhaps, ●as a punishment for having been born● perhaps, or for no particular reason, because they dislike me, and ★I've forgotten what it is★.
   — Samuel Beckett "The Unnamable," Everyman's Library p.353

生れた瞬間にだと思うが、自分は任務を与えられたのだ。というのも自分は嫌われていたからだろう。あるいは自分が生まれてきたことを咎められてこんな任務を背負わされたのかもしれない。しかしその任務がどういうものだったか、忘れてしまった。というひとり言だ。

こういう文面を見ると、僕などは癒されるとでもいう感じになる。このような感覚を果たして Beckett 自身が持っていたのかどうかはわからないが、いずれにしてもそういう感覚を抱きながら生きている人もどこかにいるらしい。仮にそういう人がいなくても、ともかく彼の作品の中にはそういう人物が出てくる。そのことに僕は癒されるのだ。癒されるという言い方がふさわしくなければ、孤独でなくなるとでも言おうか。

なんせこのような感覚を現実の世の中で誰かに一言でも打ち明けようものなら、血相を変えて人は僕を徹底的に打ちのめす。そのような体験を持った人、そういう感覚を持って生きている人、そしてそのような思いを誰にも告白できないで生きている人は、実際には多いのかもしれない。
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2017/03/14 11:22
現実生活の中では自分がひた隠しにしている思いを誰にも打ち明けることができない人でも、文学の中ではごくまれに、自分と似た感覚を持った登場人物が現れる。その人物がつぶやくほんの一言を読むために文学を読む人もいるかもしれない。僕は、そういう人のためにこのスレッドを作ったと言っても過言ではない。そしてそのような思いをしたことのない人、文学など所詮は娯楽でしかないと思う人、大衆小説や娯楽小説と純文学(特に Virginia Woolf や Samuel Beckett)とには本質的には違いなどないのだと思っている人と、僕とのあいだには共通点などない。意識の表層面では会話が成立するけど、そんなことは若い時にさんざんやってきて膨大な時間と労力を浪費してきた。これからの残り少ない人生においては、そういう下らないことはなるべくやめておきたい。

一言で乱暴な言い方をすると、僕にとっての本当の文学は、絶望を直視する文学だ。この世に存在することに違和感を禁じ得ない人の思いを赤裸々に綴るのが文学だ。存在することの無意味さと虚偽性に真っ向から立ち向かう文学だ。ただ、そればかりを追っかけていけるほど人間は強くない。僕も実に弱い。Beckett なんてものばかりを読んでいると、すぐに疲れる。だから軽薄文学に逃げる。存在することに何の矛盾も感じない人間との交流によって頭と心を休めようとする。そして同時に、永遠に僕はこの本来の問題から逃れることはできないのだと痛感しつづけざるを得ない。
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2017/03/14 11:25
次のような文面もある。こんな文章は読むに堪えないと感じる人は多いだろう。しかし僕にとっては、これほど正直な文章はない。

... not to mention ●the two cunts into the bargain, the one for ever accursed that ejected me into this world● and the other,
infundibuliform (漏斗状のもの), in which, pumping my likes, I tried to take my revenge.

上記の一節を正確に訳す自信はないが、だいたい次のような意味だと思う。なお、cunt は最高級の汚い言葉なので日本語ではそこまで下品な言葉はない。「マンコ」ではまったく足りないような恐ろしい響きを持っているらしい。だから仕方なく「最高に汚らわしいマンコ」としておく。

「おまけに例の二つの最高に汚らわしいマンコは言うまでもない。そのうち一方は、私をこの世の中に排出した例のおぞましいマンコで、二つ目は漏斗状のマンコで、私は自分に似たものを放り込んでピストン運動することによって仕返ししてやった。」

これに似た台詞も Beckett はあちこちで言っているはずだが、一つだけ思い出すのは次のものだ。

NAGG: Me pap!
HAMM: ●Accursed progenitor!● 

上記は、父親である Nagg がゴミ箱から顔を出して「パン粥、ちょうだい」と言っているのに対して、50歳くらいかと思われる Hamm が父親に対して「クソ親めが!」と言っている。ここで parent とか father と言わないでわざと progenitor と言っているのは、おそらく旧約聖書に出てくる最初の人類を意識して、人類の祖先とでもいうような意味で progenitor と言っているのだろうと思う。(詳しくは知らない。それはともかく、この "Endgame" に留まらず、Beckett はどの作品においても常に The Bible を強く意識しているようだ。"Endgame" においては特に聖書を連想させる言葉が多い。そしてもちろん、聖書やキリスト教を思いっきり揶揄するためでもあろう。さて、"Endgame" (勝負の終わり)においては、次のような台詞もある。

HAMM: Scoundrel! ●Why did you engender me?●
NAGG: I didn't know.
HAMM: What? What didn't you know?
NAGG: That it'd be you.

Hamm という名前も旧約聖書を意識しているが、この Hamm という50歳くらいと思われる男が父親の Nagg に対して「なんで俺を engender したんだ?」と言う。「なんで俺を生み出したんだ?」ということだが、engender という言葉ももしかしたら聖書を意識しているのかもしれない。それについては、まだ僕にはわからない。そして父親はそれに対して、「生まれてくるのがお前だとは知らなかったんじゃ」と言う。つまり、「お前のような奴が生まれてくるとわかっていれば、この世に生み出すことはなかったよ」ということだ。
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2017/03/14 11:29
上記のコメントで引用した台詞の出てくる場面は、

   https://www.youtube.com/watch?v=ok7Vc3jczNg

このビデオの 45 分目のところだ。"Waiting for Godot" は大衆受けするわかりやすい芝居で、表面上は楽しい喜劇だけど背後に絶望を隠し持っているものだけど、"Endgame" もそれに劣らず楽しいことは楽しい。ひょっとしたら Beckett の本質を網羅的に表現しながらもそれなりに楽しい戯曲として、彼の最高傑作かもしれないなどとも思う。なお、上記のリンク先の映画版が最高によくできているので、僕は他の役者による舞台を見る気がしない。

僕は次のような戯曲も大いに気に入っている。

(1) "Play" という戯曲。15分。メジャーな映画にもよく出てくる有名な Alan Rickman も出演している。死後の世界とも思われる薄暗い世界に無数の壺が置いてあり、それぞれの壺からは、死後の人間と思われる人物が首を出し、それぞれが前方だけを見て、他の人とはまったく無交渉にひとり言を永遠に繰り返している。しかもまったく同じことを二度も(おそらくは何度も何度も)繰り返して言い続けている。これこそが人間存在の本質だと僕は感じている。15分という短い作品の中に、Beckett の本質が詰まっている。
   https://www.youtube.com/watch?v=s2QJ0FYE3pw

(2) "Not I" という戯曲。12分。真っ暗な舞台の真ん中で、一人の女性の口だけがスポットライトを浴びている。観客には、それ以外には何も見えない。Billie Whitelaw が演技した舞台では、この女優は目隠しされ、耳もふさがれ、両手両足、胴体も何もかも板に縛り付けられ、何も見えず何も聞こえず、まったく身動きできない状態で15分間も超高速でしゃべり続けた。実に見事な作品。これも Beckett の最高傑作だと思う。(何もかも最高傑作だと言いたくなる。)
   https://www.youtube.com/watch?v=M4LDwfKxr-M

上記のリンク先で、最初に3分ほど女優の Billie Whitelaw がこの舞台に至るまでの原作者 Samuel Beckett から受けた監督指示の内容などを紹介し、そのあと13分の舞台をビデオ収録したものが放映されている。いくつもの舞台のヴァージョンを見たが、この女優のものが最高に好きだ。そもそも、Beckett が最も大事にした役者がこの Billie Whitelaw であり、この人が演技した数々の Beckett 作品は、どれもこれも 実に素晴らしい。


(3) "Rockaby" featuring Billie Whitelaw、15分

これは少し退屈で、最初は3度くらい見てもわけがわからなかった。でも何度も見ているうちに、やっと意味がわかってきた。いろいろと行動したり考えたり愛したり憎んだりしてバラエティに富んでいるかのごとく見える人生は、実は同じことを繰り返しているに過ぎないのだという人間存在の本質を、この15分ほどの狂人(らしき人物)の生き様によって象徴した作品だと僕は思う。
   https://www.youtube.com/watch?v=66iZF6SnnDU

(4) "Footfalls", 20分くらいこれについても、最初はわけがわからず、退屈だった。それでも5回くらいは見て、やっと意味がわかりかけてきた。気の狂った40歳くらいの引きこもりの未婚女性が、毎日毎日、狭い部屋に閉じこもって、同じ場所を行ったり来たりして歩くだけで何十年も暮らしているらしい。奥には80歳くらいの年老いた母親が寝たきりで暮らしているらしい。あるいはもしかしたら、その母親は死んでいるのかもしれないが、引きこもりの女性はその母親の声が聞こえているような気がしている、(あるいは本当に会話しているのかもしれない。)

母親の姿は見えず、声だけなので、ますます非現実感が増している。さらには、舞台の最後には引きこもりの女性がふうっと消えていく。実は母親だけでなく、引きこもりのこの女性も最初から存在していなかったのかもしれないと観客に思わせるような演出になっている。
OED Loves Me Not
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2017/03/14 11:30
この舞台については、3種類くらいのヴァージョンを DVD や YouTube で見てきた。きちんと理解するには、何種類も見た方がよいと思う。特にこの舞台は薄暗くて、画質の悪い YouTube 上のビデオでは細部がよく見えず、きちんと理解できない場合があるから気をつけないといけないのだ。

Billie Whitelaw もこれを演じたことがあった。YouTube 上で紹介されているビデオでの彼女のインタビューによると、彼女はどうしても一度だけ演出家の Samuel Beckett に質問しないではいられなかった。「この "Footfalls" というお芝居の主人公である女性は、死んでいるんですか?死んでいるんですか?」Beckett は、ふだんはいっさい自分の作品についてはコメントせず、答えはすべて作品の中に盛り込まれているから、作品がいったん発表されたあとは著者である私としては何も言わない、と頑強に回答を拒んでいたが、Billie Whitelaw の質問に対してだけは、次のように答えた。

"Well, let's say she's not really there."(ええっと、主人公はそこにきちんと存在しているわけじゃないとだけ言っておきましょうかね)ここで Beckett が言った "She's not really there." という言葉(確かそういう言葉だったと思う。うろ覚えなのではっきりとはしない)は、あえて上記のように訳してはおいたが、実に曖昧な言葉であり、「体だけはそこにいるけど、心は別のところにある」というか、「本気で存在していない」というか「本気で生きていない」というか「非現実感の中に生きている」というか、そんな感じの言葉だと思う。
OED Loves Me Not
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2017/03/15 13:27
【Samuel Beckett の "How It Is" (Comment c'est, 事の次第)】

"Comment c'est" (How It Is) というこの小説は、英語版では 100 ページほどなのだが、それの邦訳の新しいものが出るのだと「ベケット」のスレッドで紹介されていた。なんと 5,200 円もする。おそらくフランス語からの邦訳だと思う。僕はフランス語原文は知らないけど、ベケット自身によるこの小説の英訳版を読む限り、よくもこんなものを邦訳できるなあと驚嘆する。文法を逸脱しており、大文字で書き始めることなく小文字だけだし、句読点もいっさいない。どこからどこまでが一つの塊(つまりセンテンス)なのか、どこからどこまでがパラグラフなのかなどがわからない。パラグラフらしきものに分かれてはいるが、その分け方は意味の句切れに従っているわけではないそうだ。

ベケットによる英訳版がどのように書かれているのか、少しだけ紹介する。(ネット上で探そうとしたが、どうしても見つからない。)

小説の冒頭  1 (つまり「第1章」という意味)
how it was I quote before Pim with Pim after Pim how it is three
parts I say it as I hear it

voice once without quaqua on all sides then in me when the panting
stops tell me again finish telling me invocation

past moments old dreams back again or fresh like those that pass or
things things always and memories I say them as I hear them murmur
them in the mud

in me that were without when the panting stops scraps of an ancient
voice in me not mine

   — "The Selected Works of Samuel Beckett," Volume II, Grove Press, p.411

次に、この小説の結末部分を紹介する。この結末部分のおよそ3ページ分くらいを見事に英語ネイティブの役者が演技したものがある。このあとに YouTube 上にあるその video clip を見るためのリンク先を貼り付ける。

never crawled no in an amble no right leg right arm push pull ten
yards fifteen yards no never stirred no never made to suffer no never
suffered no answer NEVER SUFFERED no never abandoned no never was
abandoned no so that's life here no answer THAT'S MY LIFE HERE
screams good

alone in the mud yes the dark yes sure yes panting yes someone
hears me no no one hears me no murmuring sometimes yes when the
panting stops yes not at other times no in the mud yes to the mud
yes my voice yes mine yes not another's no mine alone yes sure yes
when the panting stops yes on and off yes a few words yes a few scraps
yes that no one hears no but less and less no answer LESS AND LESS yes

so things may change no answer end no answer I may choke no answer
sink no answer sully the mud no more no answer the dark no answer
trouble the peace no more no answer the silence no answer die no
answer DIE screams I MAY DIE screams I SHALL DIE screams good

good good end at last of part three and last that's how it was end
of quotation after Pim how it is

これでこの小説が終わるのだ。そしてこれを見事に演じたビデオは、次のリンク先にある。
実は英語が難しすぎて僕にはあまり聴き取れないのだが、特にビデオの最後の方は
見事で、意味が理解できなくても本能的に感じ取ることができる。

   https://www.youtube.com/watch?v=W4B_25sPhdk
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2017/03/15 13:31
★2016年5月に別のサイトで僕が書いた文章を、ここに転記します。

9か月まえに YouTube 上にアップロードされたばかりの貴重なビデオを、たったいま見終わった。

Arts Documentary: BSkyB Samuel Beckett "Not I"
   https://www.youtube.com/watch?v=Llyhy1g3TVI

43分間にわたるビデオ。2013年にテレビで放映されたドキュメンタリーで、Samuel Beckett の "Pas moi" ("Not I"、私じゃない) の舞台(およそ10分くらいのもの)を若く美しく才能あふれるアイルランド人の女優が練習し始め、舞台の始まる直前の準備を経て、最後に本番に臨むまでの模様を詳しく追っかけたドキュメンタリーだ。番組の最後の10分ほどは、この舞台の本番をすべて収録してくれている。見事だ。

途中で、この女優がどのような心構えで舞台に臨み、どのような困難があり、この脚本についてどう思っているかを紹介している。さらには、Samuel Beckett の伝記の決定版である "Dammed to Fame: The Life of Samuel Beckett" の著者である James Knowlson が何度も出てきて Beckett やこの脚本について詳しく語ってくれている。

僕がもっと英語ができれば、この程度のドキュメンタリーの内容を正確に伝えることができるだろうが、今の僕の能力では、これから何度もこれを見たあとでないとダメだ。いずれ気が向いたときでしかも気力のあるときに、できればこのドキュメンタリーの全編を聴き取って書き取って紹介したいところだ。著作権の関係もあるだろうが、こんなにいい番組はぜひともその内容をできるだけたくさんの人に知ってもらいたいと思っている。

著作権の切れた作品ならどんどん引用したりもできようが、Beckett の場合はまだまだ著作権が切れていないので、せっかくの素晴らしい作品について細かく語りにくい。実に残念だ。

上の方で紹介した
  https://www.youtube.com/watch?v=M4LDwfKxr-M
この "Not I" ("Pas moi") の舞台での女優である Billie Whitelaw (1932-2014) は、1年6か月ほど前に亡くなったばかりだ。昔の写真を見ると、実に美しい。Samuel Beckett に気に入られて、一緒に25年ものあいだ仕事をしたそうだ。Beckett についての本を読んでいると、彼女の話がしょっちゅう出てくるし、彼女が舞台で Beckett の芝居を演じている場面を撮影した拡大写真がたくさん紹介されている。

若い時には実に美しかったが、そのあと40歳以降には少し枯れて、その分だけ精神性が深まり、Beckett にふさわしい深くて重厚な女優として活躍したようだ。Beckett や Billie Whitelaw の姿をじかに見て彼らの話をじかに聞きたかったと思うが、この二人が活躍していたころは、僕はまだ何も知らなかったし、英語もろくにわからなかった。

"Not I" ("Pas moi", 私じゃない) の英語版の脚本の全文をネット上で見るには、
  
  http://www.vahidnab.com/notI.htm

ここをクリックすれば見られる。ただしサイトのレイアウトや色合いのせいで、少し文字が読みにくい。詳しくは見ていないので、果たしてタイプミスのない正確なテキストなのかどうか、僕は知らない。著作権が切れていない作品でも、ときどきこのようにネット上で読める場合もある。
OED Loves Me Not
OED Loves Me Not
2017/03/15 13:33
"Not I" (Pas moi) についての日本語の論文がネット上で読める。

サミュエル・ベケット「わたしじゃない」 独白のダイナミズム 大野 麻奈子
   https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/2549/1/kenkyunenpo_47_145_160.pdf

2年くらい前に一度だけ走り読みしたときは、あまりよくわからなかった。そもそもベケットの作品そのものがまだよくはわかっていなかったからだ。いままた3回くらいこの "Not I" の芝居を YouTube 上で見て、英語版の脚本を再読し、さらに上記の論文を読みなおしてみたら、以前よりは深く理解できたような気がする。この論文で引用されているフランス語版の台詞の数々や、この戯曲とダンテの「神曲」やキリスト教との関連については、特に勉強になった。

"Not I" (Pas moi) の戯曲は、3年ほど前に初めて出会った時からずっと好きだったが、昨日あたりからまたもや何度も見直したり読み直したり考え直したりして、ますますこれが好きになった。好きではあるけど感覚的にしか脚本が理解できなかったというか、単に感じていたに過ぎなかったのに、今日これを再読すると、今度はかなり文章そのものが以前よりも深く理解できるようになっているからびっくりした。やはりどんな作品でも、一時期にいくら根を詰めても深く理解できるようになるとは限らず、むしろ何年か時間を置いたあとに再読したり舞台版を見直して考え直すと、驚くほど理解が深まることもあるのだと再確認した。
OED Loves Me Not
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2017/03/15 13:35
上記の "Not I" についての僕の文章に答えて、別のサイトで他の人が引用してくれたダンテの「神曲」のイタリア語版とその邦訳をここに転記する。

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ダンテの地獄篇第32歌
«se dimandi fama, ch'io metta il nome tuo tra l'altre note».
お前が名声を望むならば、私はお前の名前を私の記録に加えてやろう

«Perche tu mi dischiomi, né ti diro ch'io sia, ne mosterrolti se mille fiate in sul capo mi tomi».
たとえおまえが髪を抜こうが、仮に俺の頭(cupo)を千回(mille fiate)小突こうが俺が誰か言わぬものは言わぬ。(diro: to say chio: I )正体は明かさぬ。(mosterrolti :show you)

ところがダンテが怒って喋らないボッカの髪の毛を引っこ抜いていると
quando un altro gridò: «Che hai tu, Bocca?
ところが別の声が叫ぶ。「どうしたというのだボッカよ?」
qual diavol ti tocca?».「いったいどんな悪魔がいじめるのだ?」
こうして裏切り者ボッカは逆に俺の名前を不滅にしないでくれ、といったにもかかわらず、そばにいる裏切り者に正体を暴露される。その代償として叫んだ男の素性を暴露する。
OED Loves Me Not
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2017/03/15 13:38
上記のダンテの「神曲」の英訳版を僕がそのときに調べたのだが、それをここに引用する。

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おお、Dante の "Divina Commedia" (The Divine Comedy) の原文と邦訳を引用してくれるとは、ありがたい。邦訳のついでに、英訳もつけてみたらイタリア語の意味がもっとよくわかるかもしれないと期待して、英訳を引用してみる。

(1) «se dimandi fama, ch'io metta il nome tuo tra l'altre note».
   
英訳: ("I am alive, and can be precious to you) if you want fame," (was my reply,) "for I can set your name among my other notes."

(2) «Perche tu mi dischiomi, né ti diro ch'io sia,
ne mosterrolti se mille fiate in sul capo mi tomi».
   
英訳: Though you should strip me bald, I shall not tell you who I am or show it, not if you pound my head a thousand times."

(3) quando un altro gridò: «Che hai tu, Bocca?
   
英訳: when someone else cried out: "What is it, Bocca?

(4) qual diavol ti tocca?».
   
英訳: What devil's at you?"

— Dante Alighieri "The Divine Comedy," Canto XXXII,
translated by Allen Mandelbaum, Everyman's Library
OED Loves Me Not
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2017/03/15 13:42
2013年の "Not I" (Samuel Beckett) の舞台についてのドキュメンタリーは、あれから何度も繰り返して聴いている。ただし歩きながらなので、あまり意識を集中させて聴いているわけではない。ただ幸いなことに、このドキュメンタリーは聴き取りやすい。それは登場する人たちがわかりやすい英語でしゃべっているからなのか、あるいは僕がこの話題についてかなり詳しくなってきたからなのかはわからない。

上記の YouTube 上のビデオの最後の10分ほどはこの Lisa Dwan という若く美しい女優による "Not I" の舞台の本番をビデオに収録したものだ。これからも何度も見たり聞いたりしていきたい。今のところ、ネット上を探してもこの舞台の DVD 版は販売されていない。Beckett 原作の戯曲の舞台版の数々のヴァージョンを DVD で収録したものがあれば、残らず買っていきたい。とはいえ、それはすごく数が少ない。

上記の2013年版の舞台を果敢に演じた Lisa Dwan が書いた The Guardian 上の記事が、下記のリンク先に掲載されている。詳しいことは、気力があればあとで紹介する。

http://www.theguardian.com/culture/2013/may/08/beckett-not-i-lisa-dwan


Beckett ファンならみんな知っているだろうが、"Beckett on Film" という DVD 4枚のセットが販売されている。すべて輸入盤で、送料込みで 13,000円くらいかかるようだ。これには、Beckett 原作の脚本19本に基づく芝居の映画版が収録されている。19本とはいえ、ものすごく短いものもあるので、全部合わせてもさほど長くはない。

僕はこれを半年ほど前に手に入れた。ただしこれは、わざわざ金を出して買わなくても、そのほとんどは YouTube 上で無料で見ることができる。僕が金を出して買ったのは、有料の DVD の方が画質がよいだろうと思ったし、おそらく有料の DVD にしか収録されておらずに YouTube 上では見られないものもあろうと思ったからだ。ただし、画質については DVD 上の画質も大したことはないので、おそらく YouTube 上のものとほぼ同じであるらしい。ただし、金を出したかいもあって、YouTube 上では見られないものも DVD には収録されている。大切にして、何度も見ていくつもり。

"The Selected Works of Samuel Beckett" というベケット選集の Volume III には、僕が数えた限りでは32本の脚本が収録されている。これらの脚本の舞台やラジオでの上演をたくさん視聴していきたいものだが、残念ながら、世の中で実にたくさん上演されてきたもののうちごく一部しか DVD や YouTube 上で視聴することができない。お金を払うからもっとたくさんのものを DVD として販売してもらいたいものだ。
OED Loves Me Not
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2017/03/15 13:44
Samuel Beckett を研究しようと思ったら、英文科ではなく仏文科へ行かないといけないそうだ。確かに Beckett はフランス語で最初に書いてそのあとに自ら英訳したものがたくさんある。ところが、最初に英文で書き、そのあとにフランス語訳したものもけっこうある。

戯曲32本のうち、まずは英語で書いたもの
(1) All That Fall (1956, a play for radio), 原文で 32 pages くらい
(2) Embers (1957, a piece for radio), 原文で 16 pages くらい
(3) Krapp's Last Tape (1958), 原文で 20 pages くらい
(4) The Old Tune (1960), ただしこれは、別の作家による作品を Beckett が英語で翻案したもの
(5) Happy Days (1960), 原文で 36 pages くらい
(6) Words and Music (1961, a piece for radio), 原文で 18 pages くらい
(7) Play (1962-63), 14 pages くらい
(8) Film (1963, screenplay), Buster Keaton が主演、10 pages くらい
(9) Come and Go (1965), 4 pages くらい
(10) Eh Joe (1965), 10 pages くらい
(11) Breath, 1 分くらいの無言の舞台(映画)
(12) Not I (1972), 9 pages くらい
(13) That Time (1974-75), 8 pages くらい
(14) Footfalls (1975), 6 pages くらい, Billie Whitelaw 向けに書かれた脚本
(15) Ghost Trio (1975), a play for television, 8 pages くらい
(16) ... but the clouds ... (1976), a play for television, 5 pages くらい
(17) A Piece of Monologue (1977-79), 6 pages くらい
(18) Rockaby (1980), Billie Whitelaw 向け, 10 pages くらい
(19) Ohio Impromptu (1981), 4 pages
(20) Quad (1981), 4 pages くらい
(21) Nacht und Träume (1982), 2 pages くらい

戯曲の長さを無視して、戯曲の本数だけを単純に見てみると、フランス語で最初に書かれたものが11本に対して、英語のものは21本だから、戯曲に関しては英語が主流と言ってもいい。ただし、最も有名で大衆受けしていると思われる Waiting for Godot (En attendant Godot) や Endgame (Fin de partie) などがもともとフランス語で書かれたため、やはり戯曲においてもフランス語が主流であるかのごとく思われてしまっても無理はない。なお、小説や短編や評論については、まだよくは知らない。
OED Loves Me Not
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2017/03/15 13:45
Beckett がそれぞれの戯曲をまずはフランス語で書いて、そのあとに【自ら】英訳したのか、あるいはまずは英語で書いたあとに【自ら】フランス語訳したのかを見ていったけど、どちらが先でもいいじゃないかと僕は思っている。もちろん翻訳を別の人が行った場合には、どっちが原文なのかが大きな問題になる。ところが Beckett の場合はほぼ bilingual で、自分が書いた作品のほとんどを自ら英訳あるいはフランス語訳している。

僕が知る限りでは、他の人に翻訳させたのは1本の小説か何かだけであり、
他の人に翻訳してもらったときも Beckett は細かくその翻訳文を吟味し、納得のいくような翻訳でなかったら決して承諾しなかったそうだ。さらには、やはりいかに優秀な翻訳者が訳したものでさえ最終的には満足できないことがわかり、そのあとはすべての作品を自ら翻訳することにしたそうだ。だから Beckett の場合、実質的にフランス語版と英語版とが ●両方とも原文● だと言ってもいいのではないだろうか?Beckett の専門家たちがどう言っているかについてはまだ知らないけど、今のところはそう思っている。
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